受動型の私は本当に「我」というものが希薄だった。
「人に物をもらったらありがとうと言わないと駄目」と教わったら最後、意地悪な子にキャラメルの包み紙を「あげる」と渡されても「ありがとう」と受け取る始末だった(もちろんゴミであることは認知している)。
これが小学生のときである。馬鹿みたいである。
今思えば自分でも「おいおいおい」なことばかり。
「素直」というのは、通り越していたなぁ。
でも心がないかというとそうでもなくて、やっぱり認知がおかしかった。
包み紙の件も、教えどおりに従ったというより、いらないと言ったらその子が傷付くんじゃないか・・・なんてことを考えていた。
そんなアホな、である。
他の子達には中身入りキャラメルを配っていたし、意地悪であろうことはうっすら気付いていながら、感情の優先順位があきらかに違っていた。
自分の気持ちは二の次三の次(※)、というかんじだった。
もちろん成長はしていくわけだけど、そういう過去のアホみたいに素直だった自分が、いかに皆から理不尽に扱われていたかということが理解できるようになる(認識がつながる)と、その思い出は怒り玉として心の奥に蓄積されていき、後年、不適切なところで不適切に爆発してしまうのだった。
(※)
「自分の気持ちより人の気持ちを考える」というのは良いことのように言われるけど、良いことではない。
自分を大切にできない人間は、結局他人のことも本当の意味では大切にはできない。
けど「自分を大切に」の意味が、いまだにイマイチわからない。
友達、の意味を、教えてくれる人はいませんね。
まじめな質問として聞いてくれないみたいです。皆さんのいろんな意見を、いろいろ聞きたいですね。本当にわからないんですもん。